高校生だった俺は、当時私立の高校に通っていた。
高校時代のことは、ほとんど思い出せない。というのも、2年生から3年生の途中までは、一切学校に通っていなかったからだ。
「卒業するには全然出席日数が足りない」と担任の教師が言うので、3年の夏休みの間はずっと図書館で教科書をノートに書き写すという作業をしていた。
その作業はというと……『歴史なら、教科書の文字を一字一句写経のように真っ白なノートに書き写す』『数学なら、教科書の図形をこれまたノートに寸分違わず書き写す』といった不毛なものだった。45分かけてノートを書き写し、休み時間を取り、また45分は別の科目の教科書を書き写す。
書き写す……書き写す……
そんな作業も、最初はキツいものだったが、人間とは凄いもので、次第に慣れてくるし脳も麻痺してくる。毎日同じことの繰り返し。教科書を見ては書き写す。
すると、同じ姿勢と長時間の筆記作業で鬱血したのか、右腕の肘の内側がだんだんと黒くなってきた。それだけにあきたらず、中指の所謂『ペンだこ』が出来る部分が力の入ったシャーペンの持ち方のせいか、クレーターみたいに潰れている。
家に帰って風呂に入りながら、次第に蝕まれていく俺の身体を眺めて「え? 俺、何やってんの?」と、急に我に返って泣いたりした。
そんなこととは特に関係なく……
3年の9月に、うちの学年では修学旅行があった。
大抵の高校では受験の関係もあってか、2年で修学旅行、というところが多いらしい。
俺の通っていた高校は私立だったし、進学のための勉強も一部の特進クラスで活発なだけであって、他の有象無象の生徒達は、進学よりも就職する方が総数としては多かった。
そういう背景もあったのか……は、俺の知るところではなかった。
というか、いつの間にかその修学旅行に参加していた。
――――――――
そんなわけで、俺は空港に向かうバスの中にいた。
「……」
ずっと不登校だった人間が、修学旅行のために普通に登校してきたのを見て、クラスの人間の反応は特に良くも悪くもなかった。
というかほとんど誰も、俺のことを気にしてないみたいだった。
「あ、そうなの?」
みたいな感じである。
その点ちょっとは楽になった気がした。
俺としては修学旅行に参加できさえすれば良かったから。
思い出作り……
そんな言葉が頭に浮かぶ。
俺自身も、なぜ修学旅行にだけ参加しようと思ったのか分からない。
一度しかない高校時代に、普通の人なら様々な経験をする。その経験の機会を失うのがつらかったのかもしれない。
「おい、着いたぞ! 忘れ物しないように確認してから降りろ~!」
学年の担任が全員に聞こえるような声で叫ぶ。
空港に着いたようだ。
俺は誰も話す相手もいないのでしばらく無になっていると、航空機が到着したようで、搭乗券を受け取り、乗り込む。
乗り込んだ航空機は国際線……、つまり海外旅行である。
それもオーストラリアの『パース』への旅だった。
本当なら毎年の修学旅行は、『韓国』に行くはずだったのだが、今年に限り、日本と韓国の関係が悪くなったという理由で、旅行先がオーストラリアに変更になっていた。俺としては、どっちでもいいのだが。
今回の旅程は、日本~ケアンズへ飛行機で移動、その後1泊し、ケアンズ~パースへと、また飛行機で移動するという内容だった。パースにはうちの姉妹校がある。そこを訪問するのが名目上の目的である。
正直、旅行の内容に関してはほとんど覚えていない。色々な所に行ったというボンヤリとした記憶があるだけで、後は意識を失っていた。
断片的な記憶……
俺を乗せた航空機は、ケアンズへ着こうとしている……
―――――――
「うっ………」
航空機がケアンズ国際空港に着陸しようという刹那、強烈な違和感が襲って来た。
(うんちが漏れそうだ……!)
うんちが漏れそうだった。
こういう大事な時に、お腹がゆるくなってうんちが漏れそうになるのが俺の特徴である。
「……」
脂汗をかきがなら目を瞑り、腹の前で手を重ね合わせ、静かに天に祈る。
時間を―――
ゴゴン……
到着した。
「……!……!」
一刻も早く航空機から降りたいがため、前のクラスメイトの背後にピッタリとくっつきながら移動する。クラスメイトからは気持ち悪そうな目で見られている。
関係ないのだ。命がかかっていた。
搭乗橋を抜けると、俺は真っ先にトイレを目指す。
人目も憚らず駆け足である。
トイレの表示。
個室に辿り着いた。
ベルトを外す時間すら惜しい。
………
――――――――
「ほぉ~~~~……」
間に合った。俺は胸の前で再度、手を重ね合わせる。ありがとう。
「……」
とはいえ、まだ全部出し切ってはいないので、しばらくトイレに籠もることにする。
と。
「おい!! ○○!!!」
「ひっ……」
俺以外に誰もいないトイレの中に怒号が響いていきた。
「なにやってんだお前は!! 他の人間が待ってんだぞ!!!」
担任の教師の声だった。
うちの高校はガラの悪い生徒も多いので、ナメられないようにするためなのか、威圧的な教師も多かった。うちの担任もその一人である。
「す……すいません、お腹が痛くて……」
「チッ……便所程度で他人を待たせんな!! 早く出ろ!!」
そう言い残して担任は出ていった。
「……」
しーんと静まりかえるトイレの中。
少し落ち着いた俺は、さっきまでの出来事を頭で反芻する。
……
喉から熱いものがこみ上げてくる……
「ひっ……ひん……」
なんで?
俺が悪いから?
気づけば涙が流れていた。
俺が悪いんです……
ごめんなさい……
……
この顔の赤みが引くまで、もうちょっと時間がかかりそうだった。
つづく