11,680円
高校の頃に引きこもりのまま過ごした日々。
当時は昼まで眠り、母親の「お昼ごはんできたよ~!」という声とともにパジャマのまま階下へ降り、食べ終えた後はボーッと『笑っていいとも!』と昼のワイドショーを眺め、ウトウトしているとそのまま夕方になり、夕食を食べ終えたら自室へ戻り、好きなゲームサントラを聴いたまま眠りにつく。そんな生活を送っていた。
そういう生活を何ヶ月か続けていると、まともに声が出なくなり、何かに返事をする時も「え? もう一回言って」と聞かれるようになる。
だんだんと自分が人間ではないという気持ちになってくる。人間じゃなければ虫である。
虫みたいな生活………
母親から『知り合いのところでバイト、してみない?』と言われたのは、そういった生活から脱するためには良かったのかもしれない。
結局のところ、脱することはできなかったのだが……。
――――――――
「ど、どうもこ、こ、こんにちは。りょ料金はですね、30分、3000円になっています……ええ……」
生まれて初めての接客にビビリまくる俺。大きい声を出そうとすると吃音癖が出てしまう。お客はそれでもニコニコして、俺に3000円を渡してボートに乗り込む。
近所の湖畔にある、貸しボート屋。
母親が、そこの店主の奥さんと知り合いだったので、ここで働く事になったのである。なんでも、夏には大学生がバイトをしに来るらしいが、それまでは人手が足りない状況が続くとのこと。といっても、人手が足りないというのは「ダラダラする暇を作れないから」という程度のもので、そこまで逼迫した忙しさではないらしい。
俺はそこで、接客のバイトとして雇ってもらうことになったのだった。
「おい」
「ヒッ…!」
後ろから肩を叩かれ、ビビる俺。
振り返ると、俺の他に唯一のバイトである高橋さんが立っていた。
高橋さんは見た目、かなり「やんちゃ」な感じで、髪は短髪で金色に染めており、アロハシャツを着た首元にはシルバーのネックレスが光っている。
「これから客をモーターボートに乗せるんだけど、お前『船舶』は持ってるよな?」
「へ……? 船舶……?」
「船舶だよ! 船・舶・免・許!」
船舶免許……? 船舶免許ってそんな普通に持ってるものなのか……?
持っていて当然みたいな聞き方をされて焦ってしまう。
小さくても、モーターボートを運転するには小型船舶免許を持っている必要があるらしい。初めて知った。
「いや、持ってないです、すいません……」
「持ってないのかよ……しょうがねえな、俺が出すか……」
そう言い残し、遠くで待っている客の方に戻って行った。
というか、俺に運転させるつもりだったのか……。
――――――――
ボート貸しの仕事自体は正直、かなり楽だった。
俺が接客に慣れていないだけで、それ以外はほとんど湖畔のベンチに座って客を待つだけである。
手ぶらで来たお客さんでもすぐに乗れるものには『スワンボート』と『手漕ぎボート』の2種類がある。こちらは、必要な説明をすればその場で乗れてしまうので、特に難しいことはない。その他にはモーターボートなどの、運転に慣れや免許が必要なものもあるが、こちらは電話予約が必要なので俺の出番はほぼ無い。電話はこことは別の場所(店主の自宅)にかかってくるからだ。
まず客が来たらボートの種類、時間、料金の説明をして、実際に客をボートに乗せる段階になったら『あそこにブイが浮いてるのが見えますか? あれ以上向こうに行かないで下さいね。戻って来られなくなるかもしれないので……』という言葉を添えて送り出す。これだけである。
時給は800円。午前9時から午後5時までずっとこれだけを繰り返す。
「……」
「……」
午後2時頃。客足も少なくなってきた。
それもそうで、今日は平日である。
俺と金髪の高橋さんは、湖畔の掃除をして拾ってきたゴミを、錆び付いて所々穴の空いたドラム缶で燃やしながら、向かい合ってベンチに座っていた。
ゴミはドス黒い煙を出しながらパチパチと燃えている。湖畔はいつも強い風が吹いていて、気まぐれに俺の顔へと煙を叩きつけてくる。その度に俺は咳き込み、顔の表面がパリパリに乾いていくのを感じる。
「○○」
高橋さんが、ドラム缶の中のゴミを燃えやすいようにごちゃごちゃとかき混ぜながら、俺の名前を呼んできた。
「な、なんですか」
「お前さ、趣味とかないの?」
「趣味……?」
趣味……。
困った。人に言えるような趣味を持っていないので、本気で困った。漫画も読むが、気持ち悪いオタクが読むようなもの(いわさきまさかずの『ポポ缶』や、古賀亮一の『ニニンがシノブ伝』など)しか、内容について話せるものがなかったし、音楽もテレビゲームのサウンドトラックしか聴かなかった。そんな趣味のことを話しても、場を白けさせるか、下手をすればいまドラム缶で燃やされているゴミみたいにドツき回されるような気がした。
俺は……。
「げ、ゲームです」
っつった。
これが限界だった。
「へぇ……、なんの?」
「ファ…ファ、イナルファンタジー…とか、ドラクエ、あっ、ドラゴンクエストとか……ですかね……?」
「ふーん」
これくらいなら、セーフじゃないか……?
「……」
「……」
「あっそ、で、俺の趣味はさ……」
何事も無かったかのように続ける。
「これ」
見ると両手で柄つきのタオルを広げている。
そのタオルは赤地で、模様としてアルファベットと真ん中に稲妻みたいなマークが黒色で刻まれている。
「E.…YA……Z……AWA……?」
「そう、YAZAWA。矢沢永吉だよ」
「矢沢永吉?」
「栄ちゃんのライブを見に行くのがさ、毎年恒例なんだよ」
高橋さんは満面の笑顔になる。
「でもな……」
急に顔色が曇る。
「今年は行けそうに無いんだよな……」
「……あ、そ、そうなんすか……」
俺は、なんて言っていいか分からない……。
矢沢永吉は名前を知っているだけで、歌を聴いたことも無ければ、そもそも興味すら無い。慰めても変になりそうだし……。
返答に困った俺は、滑空するスカイフィッシュを眺めるように、虚空に向けて視線をキョロキョロさせていると、
「まあ、それはいいんだけど」
「は、はぁ……」
いいのか……?
「お前もさ、なんか趣味を持てよ。声も小さいし、暗いんだよお前は……」
「え?……はい……」
あ、そういう話だったんだ……。
というか、ゲームは趣味とは認められないんだな……。
――――――――
そんなことがあった後、そうそう客が来る気配もないので、高橋さんから「陸に揚げてあるボートを掃除してこい」と言われた。
スワンボートや手漕ぎボートは、その日の客足に合わせて、湖に浮かべて桟橋に待機させるものと、陸に揚げておくものの数を調整しているみたいだった。あまり多くのボートを湖に浮かべていると客を乗せる時に邪魔になるし、痛んでくるらしい。
湖の水をバケツに汲んで、軽い汚れがあるところは雑巾がけ、土などがこびり付いているところはモップがけと、使い分けながら掃除をしていく。
人と接するよりはこっちの方が楽だよなぁ……と思いながらスワンボートの、人を馬鹿にしたような顔を磨いていると、
「おい○○!! いま手が離せないから、ちょっと客の相手をしてくれ!」
と、高橋さんが大声で呼んできた。
俺は蚊の鳴くような声で返事をする(声を出すのに慣れていないので)と、走って窓口に向かう。
そこには家族連れの姿が見えた。父親風の男が俺の姿を見ると、
「お? 遅かったんちゃうか? はよ説明しぃや」
と関西弁で喋りかけてきた。
とりあえずボートの種類を説明しつつ、俺はというと、
(わ~~~~、関西弁だ~~~~)
と、半ば興奮していた。
関西弁を喋る人間を、テレビ以外で見たのは初めてだったからである。
「兄ちゃん若いなぁ~、大学生か?」
「い、いえ、高校生です」
男は馴れ馴れしい口調で接してくる。
「ほぉ~…ま、ええわ。で……なんぼ?」
俺は気を取り直す。
「え~~~、30分で3000円になります……」
すると、男の顔色が変わった。
「は?? たっか〜〜!! もうちょいまけてくれんの?」
露骨に嫌そうな顔をする男。
「え~~とですね、ダメだと思います……」
料金に関しては、俺が決められる事ではないので、そう答えるしかない。
「お〜〜い、遠くから来てんねんで? もうちょい気ぃ利かせられへんの?」
「あの……ちょ、無理……」
「はぁ~~~~~~~~~~~~ぁ」
めちゃくちゃ苦手なタイプだった。
というか、こういうテレビで見るような身振りの関西弁の人なんて、本当に現実にいるんだ……と逆に感動してしまう。
「なぁ、何でもええから、はよ乗らん?」
そのやりとりを横で見ていた母親らしき女が、染め直し過ぎてキューティクルが一切なくなったような金色の髪に触りながら、急かすように男に言う。
「あ~~~~~しゃあないわ、ホラ、これでええんか?」
男は俺に料金を、叩きつけるように手渡してくる。
「………ありがとうございます」
俺はホッと息をつく。
何とか難を逃れたようだった。
その後も……
手漕ぎボートに乗る際に、足元に空いた穴(排水口。穴が開いていても、船体は浮くので問題ない)からチャプチャプと入る水を見て、
「おい!! 穴が空いとるぞ! 沈むんちゃうか!?」
と怒鳴ってきたり……。
ボートの上で子供が暴れて落ちそうになったり……。
境界線のブイを超えて向こう側に行こうとしたり……。
それらに対応をするだけで、かなり精神を削られてしまった。
後ろを振り返ると、高橋さんは遠くのベンチに座り、タバコを吸っている最中だった。
――――――――
「おつかれさま~~~」
「……はい」
午後5時になり、どこからともなくやってきた店主の奥さんが、俺に声をかけてくる。
俺は生まれて初めて仕事をした疲れからか、頭が痛くてしょうがなかった。朦朧とした意識の中、店主の奥さんに返事をする。
店主の奥さんは、スチールか何かでできた小さい箱を窓口から取り出し、中身をゴソゴソとかきまわす。
「じゃあ、今日のお給料ね」
「……!」
俺の手に、紙の束と少しの硬貨が手渡される。
6400円。
「……!……!」
初めて自分で稼いだお金である。
正直、めちゃくちゃ感極まっていた。
今まで『自分の働き』に対して、お金が払われたことがなかったからだ。
今までは親から「お金を払って学校に行かせてるのに、何でこうなっちゃったのかねぇ……」とか「お金を稼ぐのがどれだけ大変か、アンタ分かってんの!?」といった言葉しか掛けられなかった。
ただ生きているだけで、お金を消費する物体……。
それが俺だったからだ。
でも、今回はそんなことない。ちゃんと自分の働きでお金を稼げたんだ。
めちゃくちゃ感動していた。
「ありがとうございます……」
俺は泣きそうになりながら頭を下げる。
「明日も来てね」
店主の奥さんは笑顔だった。
「はい……」
もう一度、深く頭を下げた。
――――――――
その後。
何日かバイトを続け、前から欲しいと思っていた『AKG K240S』というヘッドホンを、サウンドハウスで注文した。
いつも聴いているゲームのサントラを、より良い音で聞きたかったからだ。
実際に届いて使ってみると、想像以上に良かった。
これを買ってからというもの、ゲームサントラを聴くのが一段と楽しくなった。これまで使ってきた安いイヤホンとは全然違う。今までに死ぬほど聴いて飽きてきた曲も、音の一つ一つが全然違うように聴こえて新鮮だった。
それに、
『自分で稼いだお金で、初めて買ったんだ』
と思うと、余計に愛着が湧いてくる。
「♪〜」
それから、毎日そのヘッドホンで音楽を聴いていた。
相変わらず、学校には行かずに。
おわり